須恵 深田 上 免田 岡原

 

  知ったかぶり

知ったかぶりして、あさぎり町の紹介をしようと思います。
(球磨を離れて、ん十年、間違い部分はご指摘をお願いしま~す!)
また、このコーナーで紹介して欲しいことがありましたら、出来れば写真付きで「メール」投稿をお願いします。


くま川鉄道

くま川鉄道 は、我々がその昔にお世話になった、旧国鉄の湯前線を受け継いでいただいている第三セクターの会社である。

人吉温泉駅   平成元年(1989)の設立だから既に四半世紀を走ったことになる。
(写真はJR九州・人吉駅の待合室掲示の時刻表)

13年11月、人吉温泉駅18:32発にあさぎり駅まで乗車しました。
くま鉄   乗った車両はKUMA1・2ではなかったが、どこかのいなか路線を走っているモノとは違うくま川鉄道独自の車両であった。
隣駅の相良藩願成寺から人髙生が乗って来たので、車内の写真は撮るのは控えたが、あさぎり駅にてマスコットマークの”がまんちょ君(せぐっちょ)”の写真を撮影。

下のあさぎり駅の時刻表に2D(写真クリックで拡大)とある6:49のが、40年以上も前の高校時代に免田から人吉まで3年間お世話になったディーゼルであるが、当時は6:55頃?
その頃は7両編成で、3両程はホームからは完全に食み出しており、よじ登ったものである。

あさぎり駅   一時期は、人吉からの急行"くまがわ号"を連結して走っていたこともあり、人吉で乗り換えせずに湯前から北九州まで行けたこともあった。
ん?、14往復もある。私が乗っていた時期の1968年12月時点で 9往復 とあるので、5往復も増えていることになるが、日中でも4両は走っていた筈。

   話は変わるが、雪が10cm程積もっていたある朝に「えびの地震(1968/2/21)」があり、湯前線や肥薩線、産交バスなどの交通網が全線ストップ。 人吉の村山大地から免田まで歩いて帰ることになり、湯前線の有り難さを思い知った日のことを思い出した。
大村古墳群
(写真は、人吉温泉駅ホームに有る大村横穴遺跡の説明看板、クリックで拡大)




久鹿の了円寺と山頭火の句碑

    くま川鉄道免田駅(現在のあさぎり駅)の裏側一帯を久鹿と言いますが、その中の一際大きい建物が浄土真宗の「了円寺」。

句碑の看板
了円寺の句碑
 


そこの境内に国内に500基とも言われる俳人  種田山頭火(たねだ さんとうか 1882.12~1940.10没)  の句碑の1つがあさぎり町にもあっとですよ。

書そのものは町の指定文化財になっていますが、今回は、寺の門を入って右手にある句碑の紹介です。

   俳人 種田 山頭火 とは山口県が輩出した、5・7・5の17文字や季語に拘らない偉大な俳人で、生涯で、8万句以上も詠んだとも言われています。

   大正14年に熊本市内の曹洞宗報恩寺で修行し、生きる為に托鉢を続けて1年余が経った昭和元年4月(山頭火 44歳の時)に俳人 尾崎放哉(おざき ほうさい 鳥取県生まれ 1885.1~1926.4)が41歳の若さで死去。山頭火は3歳も年下の放哉の作品世界に共感し、句作への思いが高まり、法衣と笠をまとい鉄鉢を持って熊本から西日本各地へと托鉢に旅立った。

この行乞 〔"ぎょうこつ" =僧侶が乞食("こつじき"と読むそうです。山頭火ご本人が"コヂキ"と書いた書もあるらしいが、"コヂキ" とは読まないで!)をして歩くこと。僧侶が修行のため食べ物の施しを受ける行のことで、人家の門前に立って、食を請い求めることと辞書にあります。要は、托鉢のこと。〕の旅は7年間もの長きに続くことになり、そんな中で多くの詩が生まれていくんだが。

「れいろうとして 水鳥はつるむ」    山頭火

  昭和5年春、当時、久鹿の了円寺の住職で句友の 川津寸鶏頭 を訪ねて泊り、半折に書き残したのが上述の句で、句碑に刻まれている同じ内容が看板(右の句碑の写真をクリックすると拡大します。看板が無ければ私には読めませんが)として立てられています。

れいろう(玲瓏=玉などが透き通るように美しいさま。玉のように輝くさま。と辞書にはある。「玉のようにれいろうな詩人らしく見え」〈漱石・行人〉)として水鳥がつるむ    の句の解釈は専門家に譲るとして、ぶっきらぼうな印象の詩も山頭火らしい。

    法事で訪れた輩は、町文化財の「書」を見せてくれんですかとは言わなんだが、実は…、この了円寺には、他にも、もう一枚の書があったんだそうな。(高田素次 著「嘘のような本当の話」から引用)

「百舌鳥啼いて 身の捨てどころなし」    山頭火

2009/8/16追記:了円寺の句碑と宮原観音が掲載されているサイト 写真旅紀行 がありましたので、リンクを張ります。



ラムネの鉱泉

あさぎり町ルートマップ を開いてジット見てください。

見えなかった看板 ラムネの原泉 中央下の上南(旧・上永里)地区に 『ラムネ鉱泉』との記載があります。

   07年11月、ん十年ぶりに権現谷を訪れて見ました。その昔は温泉というか風呂もあった様にも思いますが、記憶違いでしょうか?

「ラムネ鉱泉 0.9Km」という標識を見て、車で地道を登って行ったら、雑草に覆われている左の写真の看板を見逃してしまった。
こんなに遠くはないよなーと引き返す羽目に。

「あった!」吊り橋を渡って屋根囲いのある場所に辿り着き、茶色の水を口に含むと、確かにラムネの味がする。
ウン、でもこれだけでは売りには出せないな~。




深田の立岩

 その昔、日本3大急流と言われた「球磨川」の明甘(めいはた)橋の川下から見た深田の「立岩(たちいわ)(中央付近の黒い部分)です。

球磨川と深田の立岩   06年夏に帰省した折に、球磨川を撮った時に見えた岩が「立岩」と言うらしい。
で…、その立岩に近づくと、句碑が嵌め込んであった。


「大根舟 続く炭舟 下り舟」高田 素次 書  とある。


高田 素次(たかだ もとつぐ)氏は、旧上村永里出身の郷土史家 高田 元(たけし)氏のペンネーム。 家が近かった小学生の輩は、「百太郎の人柱」など球磨の民話を楽しく話されていた 元 氏を元(げん)さん としか呼んだ記憶が無い。(いや、たけし と読むんだとは昨日まで知らんかった。"知ったかぶり"とはこんこつたいな。)

立岩の句碑

俳人 井上 微笑(いのうえびしょう 本名:井上 藤太郎 (1867.7.2~1936.6.12没))がこの句を詠んだのは、 元さんが生まれる数年前の明治40年の冬。

 

俳人微笑 と 元さん とのつながりは詳しい人に譲りますが、微笑は福岡県生まれで70歳で他界されるまで26歳から湯前に住み着き、湯前役場にて生き字引として勤めて居んなさったんだとさ。

井上 微笑 の詳細は、句碑写真をクリックして確認ください。

 明治時代までの球磨川は、舟運が発達(いや舟に頼るしかなかった)していて、大正末期(1924年、大正13年)に開通した湯前線(現、くま川鉄道)に取って代わら れるまでは物資輸送の大動脈であったそうな。 球磨川沿いのいたる所に積み出し港があって、旧深田村の「立岩」付近が一番繁盛しとったらしか。

球磨川べりにせり立つこの岩近くの舟溜から、大根や炭を積んだ高瀬舟が煩雑に出て行く様子が謳われています。
今ではこの立岩は水面からは遠ざかってはいるが、この句碑を見ていると往時を偲ぶことが出来ますヨ。

さ~て皆さん、これらの舟が八代?人吉から上がってくる時には何んば積んでたんですか?ご存知の方は教えてください。
塩鯖ですか?

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